道志渓谷に涼しい風が吹いていた,の巻
道志渓谷に涼しい風が吹いていた,の巻
「道志渓谷に涼しい風が吹いていた」
★1992年6月3日、ローラー・ブレードで東京八王子駅を出発したキャプテン高橋は、4日17時ついに山中湖及び富士山に到着。ずっと構想を練って来たローラーブレードによる東京-富士間80キロ走破を実現した。
八王子 - 富士吉田・ブレード走行記
*目 次*
我慢の準備期間
見送りは見知らぬおばさんだけ
体調悪し津久井湖で休憩
運命を変えた少女のひと声
心優しき人々
山岳走行の厳しさを思い知る
道志川渓谷の清涼感に救われる
直販のおばさんに救われる
ビールに救われる!
君原走法に救われる
オッパイを見た?
沿道の声援に力を得る
13恐怖の山伏峠
意外な声援に救われる
峠を越えると妙な男が待っていた
富士山麓に雷鳴とどろく
■我慢の準備期間■
一昨年ニューヨーク、ピーター三好氏からローラー・ブレード、ゼトラ303を輸入して貰ったが、もっぱらビールの買い出しに用いる以外、使い道に困っていた高橋君は、昨年夏、「そうだ、これで富士山へ行こう!」と思い立った。
そこで、秋から冬にかけて用具を揃えながらテスト走行を重ね、四月、運び屋ピーター三好に、交換タイヤ608とベアリングを日本に持ち込んでもらい、渋谷ロフトでブレーキ・パッドを手に入れたところで、日が長くなる季節を待った。
■見送りは見知らぬおばさんだけ■
その年の健康診断では、心電図異状無し、肝機能もなんとか数値安定。しばらく悩んでいた腰痛も治った。
ブレード走行計画のことを何も知らない保健所の医者に、
「少し激しい運動をしてもいいでしょうか?」と尋ねると、
「死なない程度にね」と言う冗談っぽい答え。
これで医者のOKが出たも同然、と勝手に解釈し、予定より一カ月遅れ、6月3日梅雨入り前の最後の晴天を狙って、午前11時頃八王子駅から一人、見送りも無く、おもむろに出発した。
駅前で出走用のコスチュームに着替えている時、おばさんが1人、眉間にしわを寄せて上から下までなめるように高橋君を見ていたが、やがて立ち去って行った。
キャプテン高橋、34歳。
■体調悪し津久井湖で休憩■
八王子から橋本まで16号を下る。歩道を通るが、トラックやオートバイの通りが激しく、神経を使う。16号から右に折れ相模湖・津久井湖方面へ向かう。
気温29℃晴天。1時間ぐらい滑ったところで、高橋君は持病の激しい頭痛を起こした。久しぶりに強い日差しを浴び、発汗を繰り返したからかも知れない。少し休まなければと思ったが、まだ街中で場所が無い。津久井湖まで我慢する事にしたが、次第に悪寒が走り、めまいと吐き気をもよおして来た。熱中症だろうか。急な坂を登って、どうにか貧血寸前で津久井湖にたどり着く。
木陰のベンチで、1リットルのスポーツ・ドリンクを飲み干して横になると、気分は少し良くなった。落ち着いて来たところでパンを食べ、鎮痛剤を飲んだ。
■運命を変えた少女のひと声■
そこで30分程休んでまた滑り始めたものの、すっかり弱気になっていて、「やめようかな」と思い始めていた。
次第に登り下りが激しくなって来る。気温30.1℃。路面温度不明。汗は止まらない。津久井湖を過ぎ、このまま、413号に入らず真っすぐ相模湖まで行って、そこで泊まるか帰るか考える事にした。1時間でこの調子では、富士山なんてとてもとても‥‥、と思ったのだ。
だから、信号待ちでおばさんに「おもしろそうだねえ。それで滑って、何処まで行くつもりなの?」と聞かれた時も、高橋君は迷わず、
「ちょっと相模湖まで」と答えていた。
時刻は12時ちょうどぐらい。一旦あきらめると急に足が重く感じた。
ローラー・ブレードで難しいのは、登りよりも下りである。勢いがついて止まらなくなるからだ。そのために、かかとについているブレーキパッドを地面に擦りつけて、減速しながら進む。そんな操作をして、30分程下って、413号とのT字路が見えた時、疲労で足が痺れて力が入らなくなり、かなりハデに転倒した。
本当に限界だなと、転んだままじっとして休んでいると、
「だいじょうぶー?」と少し離れた所から女の声がした。
見ると、ガソリンスタンドの少女が心配そうに高橋君を見ていた。ハッとして、「大丈夫だ!」と、手を振って起き上がる。そうしたら今度は、
「何処までいくのー?」と聞く。
するとどうだ、
「富士山まで!」
なんと、高橋君は笑顔でそう答えているじゃないか。あきらめた筈ではなかったのだろうか? いやそれどころか、言うが早いか、もう413号に足を踏み入れようとしている。
そして「すごーい。頑張ってねー」と言う少女の声に右手を上げ、あれよあれよと言う間に滑り始めてしまったのだ。なんと彼は、二度と会う事も無い女の為に、大見栄を張ってしまったのである。
■心優しき人々■
幸か不幸か、キャプテン高橋は富士山への道を滑り始める事になった。どちらにしろ、あの娘が声をかけて来なければ、この旅はすでに終わっていたはずなのだ。いやはや運命とは‥‥、こんなモノなのか。
それにしても、少し田舎に入って来たせいか、色んな人が気軽に声をかけて来るようになった。それにくらべて、都心でのテスト走行の際の不愉快なこと。特に若い女の不機嫌そうに視線をそらす態度はなんなのだろう。とにかくエラい違いである。
たとえば板金工場の前で、煙草をふかしていた工員が高橋君を見つけ、急いで仲間を呼び集めて一列に並んだかと思うと、「おー」と手を振って見送ってくれたり‥‥‥
バス停で立っている老人が、
「なあんだ? ローラー・スケートに良く似ているなあ」
と笑うのを見て、それに、
「これも、ローラー・スケートなんです」と答えたり‥‥‥
バイクに乗った少年が、リズミカルにクラクションを鳴らし、手を挙げて追い越して行く様など、そんな一瞬に少しずつ勇気を取り戻してくのだった。
■山岳走行の厳しさを思い知る■
413号に入ってから、山道はますます険しくなって来た。車や自転車には何でもない道でも、ローラー・ブレードには辛く苦しい道程だ。登りで体力を消耗し、下りでは止まらない恐怖に神経を擦り減らす。また山道はスリップを防ぐため、わざと粗い舗装している部分が有るので、そんな所では足を取られて失速し、転倒することもしばしば。
そうこうしている内に、両足の内側に激しい刺すような痛みが走り始めた。どうも靴ずれが起きたようだ。出発時、うっかりテーピングを忘れたため、いつかこうなるとは思っていたが、予想をはるかに越える痛みだった。何処かで治療しなければならない。
■道志川渓谷の清涼感に救われる■
小さな峠を越えて、道は次第に平坦なものに変わって来た。地図を見ると『青野原』の辺り。一直線で長い滑らかな路面。快晴、気温29.5度。13時30分。両側に広大な畑と山々が強い日差しに照らされている。足の痛みは相変わらずだが、今日一番気持ちの良い滑りだ。
道の脇の畑に井戸らしき蛇口を見つけ、そこで休憩する事にした。痛みを堪えブーツから足を抜くと、白いソックスが血で真っ赤に染まっていた。
「ここまでやるかな‥‥‥」
そう思いながら血を洗った。ついでに手足や顔にも冷水を浴びせると、随分いい気分になった。そして涼しい風に吹かれながら、視線を道のずっと先にやると、また山道になっているのが解った。
足の治療を済ませ、また滑り始める。
この道は古くから道志道と呼ばれ、横浜市の水源となる道志川渓谷と幾度も交差しながら伸びている。その渓谷に架かる橋を渡る時、その深い緑と、青く透きとおる水、そして谷から吹き上げる風が体を冷やし、気持ちを穏やかにした。
■直販のおばさんに救われる■
2時間半、山道を滑って、いよいよ体力も足の痛みも限界に来た。16時。まだ時間には余裕が有るが、一泊する予定の道志村・竹之本はまだ20kmも先だった。この辺りに泊まる場所があれば、思うが、宿らしきものは見当たらなかった。
それでも、川沿いに釣り客用の旅館が有ると言う看板を見つけて、ブレードを脱ぎ1kmほど降りて行ったが、平日はやっていないと言う事で断られた。そしてまた1km谷から登る。
宿だけでなく水も枯渇して来た。水筒には一滴も無く、再び脱水状態の悪寒を感じ始めている。「さっき降りたとき川の水でも飲めば良かった」なんて思うくらい喉が渇いていたが、仕方がない。そのまま少し歩く。
500mほど行くと農家の直販のノボリが見えた。スイカか夏ミカンなら沢山買い込んで、今日は何処かで野宿でもしようと思った。しかし、近づいて見ると果物ではなく山菜だった。
仕方がないので、それならばと、おばさんに何処かに宿は無いかと尋ねてみた。すると親戚がやってる『鶴屋旅館』と言うのが有るらしい。
「バスで行きゃあ、10分なんだがなあ‥‥‥」
と言った直後、いきなりびっくりしたような声で、
「あっ!、ほれ、バスだ! 手あげてえ、乗せてもらえ!」
と指さした。
振り向くと、ちょうどバスが峠を登って来るところだった。
キャプテン高橋は言われた通りバスを止めて乗り込み、走りだしてから、お礼を言おうと窓を開けると、「ひがしのー!」と言うおばさんの声が聞こえた。どうやら降りる停留所の名前らしい。
そのまま数分走ると、三つ目がその『東野』と言う停留所だった。「しまった、降りてからの道順を聞かなかった」と不安になったが、降りると、すぐ目の前が『鶴屋旅館』だった。
■ビールに救われる!■
この辺りは、青根と言う神奈川と山梨との県境。旅館の女将さんに、道志川に面した一番景色の良い部屋をとってもらい、荷物を降ろした。出発から約6時間が経過していた。
その晩、高橋君は恐らくこの世で最高の風呂とビールと食事を味わったはずだ。女将さんは無口な人だったが、料理の味は絶品だった。食事が終わると、体中が筋肉痛に襲われている上に、ビールの心地よい〃クラクラ〃で動けなくなった。
夜、山から降りて来る心地よい風を窓から入れて、その山の上に細い三日月が現れたのを見つける。
そして道志川渓谷の水の音が、確か、眠りにつくまでは聞こえていた。
*
■君原走法に救われる■
起床6時。ストレッチをして、ブレードのタイヤ・ローテーションを行う。特に前輪の摩耗が激しい。
朝食後、雑貨屋でガムテープを買い、それを足にグルグル巻いて靴ずれの患部を保護する。そして飲めるだけのスポーツドリンクを飲み、30分程横になって胃を落ち着かせた。昨日脱水症状に悩まされただけに、水分の補給だけは気をつけよう。
10時出発。いきなり足が激しく痛む。滑り始めて直ぐに登り坂で力尽きた。30分も経っていない。でも、このまま我慢して滑っていれば、脳内麻薬が分泌されて痛みも薄れて来るに違いない‥‥。そう信じて、あの電柱まで、あの樹まで、と言う君原走法(マラソン銀メダル選手の走法)で小刻みに進んで行った。するとしばらくして、思った通り楽になって来た。
『月夜野』と言うところを過ぎ、下り坂を気持ち良く滑って道志村に入った。この辺りは、キャンプ場や釣り場などが続く静かで美しい所だ。道は、道志川と幾度も交差し、その度に渓谷美を楽しめる。そうして、次第にペースをつかんだせいか、昨日よりは確実に楽に走行する事が出来た。
気温30℃。晴れ。山中湖まであと30km。
■オッパイを見た?■
道沿いには古そうな民宿が立ち並んでいた。
深い渓谷だった道志川が、道のすぐ脇を流れるせせらぎになった。降りれそうな河原を見つけて休憩する事にする。手足を川の冷たい水で冷やし、落ち着いたところでパンをかじる。透明な水の流れを見ているだけで不思議と暑さを忘れる。
14時まで、15分休んで、また出発。時折り沿道の人達との会話を楽しみながら7~8km程進んだ。その内疲れから急に甘い物が欲しくなり、雑貨屋を見つけてキャラメルでも買おうと思った。
ブレードのまま店の中に入り、「すみません」と言ったが誰も出て来ない。何度声をかけても姿を見せないので、おかしい、いないのかな。と、何げなく店の奥の茶の間をのぞき込んで、驚いてしまった。なんと女の子が上半身裸で、慌ててTシャツを頭からスッポリかぶっているところだった。
「まずい!」と思い、しかしつい目が釘付けになって‥‥、いや、それから、気づかれないように店の入り口までスルスルっと戻ったのだ。
まもなく娘さんは、何事も無かったかのように出て来た。そして応対しながら、足元を見て、「えー?、それで旅を続けてるんですか」と驚いて見せた。キャプテン高橋も何食わぬ表情で会話を交わし、キャラメルを一つ買って表に出た。
‥‥暑かったし、客も来ないので、涼んででもいたのだろうか。それとも着替えの途中だったのか。何だか良く解らないが、とにかくこんな場所で、若い女性の胸を見ることになるとは思ってもみなかった。
高橋君の頭の中で、ラッキーの鐘が鳴り響いていた。
■沿道の声援に力を得る■
店を出てからしばらくは、出来たばかりの広く滑らかな下り坂が続き気持ち良く滑って行った。この快感は、恐らくスキーにでも匹敵するのだろうか、あるいはそれ以上か‥‥‥
「こりゃ良い!」高橋君は思わず両手を広げ、風を受けた。
しかしその快走が終わる頃、この旅の最大の難所、「標高1200m・山伏峠」が迫っていたのだ。もはや下り坂は皆無となり、延々と登りだけが続く。
その間も色々な人から声を掛けられた。庭先で水まきをする人。工事現場で交通整理をする人。特に畑帰りらしい老夫婦と嫁さんの三人は、話しかけて離そうとしない。
東京から来たと告げると、
「たまげたな、歩いた方が楽だろうに」と言って笑った。そして、
「平野(山中湖)まで行くのか? だったら大変だ。この先はもう登りしか無えぞ。峠、越えなきゃなんねえぞ。気をつけろ」と言い、また笑った。
後ろ髪を引かれながら、その家族に別れを告げ、また滑り出す。
ふと、今まで会った人々が、恐らく再び会うことは無いのだと気づき、何か胸が熱くなるような感慨が迫ってきた。
■恐怖の山伏峠■
『善之木』を過ぎる頃には、人家も人通りも無くなっていた。時折り、車が物凄い音を立てて通り過ぎて行く。
15時。山中湖まであと約16キロ。一休みして残りのパンを食べ、水を飲み、キャラメルを3、4粒一度にかんで、じっとして体力の回復を待った。
西日が山を少しオレンジ色にしているのを見た。何だか悲しいような気持ちに襲われる。
5km程進むと、『山伏峠・山中湖まであと10km』の看板が見えた。その先は考えていたよりもキツイ登り坂が待ち構えていた。覚悟を決めて峠に足を踏み入れる。路面が粗い。勾配は目測では解らないが、車がセカンド・ギアで登って行くような所だと思えばいい。
少しして、サイクリングの男が、前を向いたままガッツポーズの格好で追い越して行った。その後ろ姿を追うと、彼も苦しそうにひとこぎひとこぎ登って行く。
ただ幸いな事に、峠に入る頃から空が曇り、涼しい風が吹き始めていた。気温は21度まで急激に下がっている。標高のせいも有るのだろう。
■意外な声援に救われる■
足の痛みと体力の消耗と、急な登り坂が一度に襲って来た。10m登っては休むと言う状態になった。立ち止まると、汗の匂いに誘われるのか、蚊やハチが顔の周囲を飛び回る。
高橋君は少年の頃、虫採りの最中誤ってアシナガバチの巣を叩き落とし、ハチの大群に襲われ熱を出すと言う苦い経験が有り、ハチは苦手だった。そのため落ち着いて休むことも出来ず、何度も追い立てられるように先へ進む。
通り過ぎる車に乗っている人々が、眺めながらあざ笑っているような気がした。もうこの辺りはバスも通らない。日も陰って薄暗い山の中で独り、何km進んだのか、あと何km進めばいいのか、皆目解らない。
「こんなところで、野宿はないよな‥‥」
無性に心細くなってきた。
ふと腰掛けているガードレールの横を見ると、『死亡事故現場』と書かれた看板が立ち、花が置いてある。急にぞーっとして30mぐらい一気に登った。
息が切れてヨロヨロしていると、後ろから、
「そこのローラースケート!」
と言う拡声器の大きな声が聞こえた。振り返ると、白バイが2台、ニヤリと近づいて来る。
なんだよ。「ここまで来て何か言われるのかよ」と、ムッとしたが、彼らはただ、「ガンバって!」とだけ言い残して走り去って行ったのだ。
驚いた。てっきり咎められると思ったのに‥‥‥
それにしても、人里離れた所での、この思いがけない声援は効いた。気力が蘇って来た。
■峠を越えると妙な男が待っていた■
最後の力をふり絞り、山伏トンネルまでたどり着いた。このトンネルを抜ければ、あとは長い下り坂だ。そのまま一気に山中湖まで行ける。 ブレーキ・パッドを交換し、急な下りを減速しながら乗り切る。途中、折り返して来た先ほどの白バイと軽く挨拶を交わして、山中湖に到着。
湖畔に出て景色を眺めた。着いてからまた雲が切れ、霞がかったシルエットでは有ったが、確かに富士が見えた。湖面がキラキラと日差しを受けて輝く。
まだ明日、忍野、富士吉田までの走行が残ってはいるが、ひとまず、ここが今回の目的地だ。
最高の気分だった。誰も知らない所で、何か一つの事をやり遂げる。ふと、もしかして感動のあまり泣いてしまうのかなと思ったが、高橋君は運動した後、異常なハイに陥ってしまう体質なので、あとからあとから笑いが込み上げて来るのだった。
ひとしきりの感動も終り、さて宿を探そうと信号待ちをしていると、前から来た一台のジープが道の脇に止まった。そして運転していた若い男が盛んに話しかけて来る。
「東京から来た」
と答えると、驚いたような顔をして、
「ちょっと、お話しうかがってもよろしいですか?」と言う。
「物好きな奴だな。ひょっとしてブレードが欲しいのかな?」と思いながらOKすると、彼は〃ノートと一眼レフカメラ〃を持って降りて来るではないか。
「すみません。私、山梨日日新聞の記者なんですが、よろしくお願いします」
と言った。高橋君は、ええ?ちょっと出来過ぎなんじゃないの?と思ったが、道端に座り込んで、これまでのてん末を話した。
彼は慣れた口調で次々に質問を浴びせて来たが、
「年齢は、34です」
と言ったときだけ目を丸くして、
「ええっ? けっこうイってるんですね‥‥。学生かと思った」
としばし凍りつくのだった。
「これからの目標は? アメリカ大陸横断とか‥‥?」
「いや、そこまでは‥‥。何しろ今回が初めてなんですよ。だいたい、ここまで来れるかどうかも解らなかったし」
この答えにはやや不満のようだった。何とか〃どでかい〃ことを言わせたいらしかったが、ウソを言うわけにはいかない。
インタビューが終わると、滑っている写真が欲しいと言うので、行ったり来たりして、フィルム一本分撮らせて、そこで別れた。
時刻は17時ぐらい。
■富士山麓に雷鳴とどろく■
それから高橋君は、テニスコートつきの『高嶺荘』と言う宿を見つけ、そこに泊まる事にした。聞けば俳優の千葉真一氏ごひいきの宿と言う事で、その日もジャパン・アクション・クラブのメンバーが数人、合宿を行っていた。その人たちがローラー・ブレードを珍しがり、食事中ひとしきり話しに花が咲いて、夜が更けて行った。
翌朝、ガタガタの体を引きずりながら、朝日を浴びて山中湖サイクリングロードを半周。そこから138号を抜けて忍野をまわり、やっとの思いで富士吉田駅に到達した。
全工程約80km。その内バスに乗った5km程を除く、75kmを全てローラー・ブレードによって走破した。
二泊三日。
延べ走行時間、17時間。
体重、出発時67kg。到着時62kg。
富士吉田駅から電車に乗り、走りだすと、やがて雷が鳴って激しい雨が降り始めた。
高橋君は座席に着くと、そのまま深い眠りに落ちてしまったが、その大粒の雨は、列車が大月に到着してからもずっと、やむことはなかった。
*
走破を終えたキャプテン高橋は、次のように感想を語っている。
「こんなにも苛酷で危険なブレード走行は、私で最後にしてもらいたい」
しかしそのあとに、次は鴨川まで夏の海沿いの道を行くつもりだ。とつぶやくように語った。
キャプテン高橋の、果てしない夢と無茶はまだ続くらしい。
1992年6月3日水曜日